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よくあるご質問
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クリスチャンではないのですが、教会に行っても良いですか?全く問題ありません。クリスチャンの方、クリスチャンでない方、仏教など他の宗教の方、無心論者の方、教会に興味がない方、どなた様も喜んで歓迎します。
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そもそも教会では何をしているのですか?聖書の神(創造主)を礼拝しています。教会の礼拝は、みんなで賛美し、牧師のメッセージを聞きます。途中にお祈りの時間と献金の時間があります。お祈りは、その場でイスに座った状態で祈ります。
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教会にはどんな服装で行けば良いですか?自由ですので、お好きな格好でお越しください。スーツの方や普段着(Tシャツ・ジーンズ等)の方など色々です。
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献金を強要されたりしないのですか?一切ありません。礼拝中に献金の時間があり、献金袋が回ってきます。しかし、献金の意味や趣旨が分からない方は献金袋をそのまま隣の人に渡していただいております。献金は強制ではありません。神さまへの感謝のささげものです。
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礼拝の途中で帰ったり、トイレに行っても大丈夫ですか?礼拝の途中で退室していただいてもかまいません。お手洗いに行っていただくのも問題ありません。また、遅れて来た場合でも気にせずお入りください。
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フルネームや住所などを書かなくてはいけませんか?初めて来られた方に、ゲストカードを書いていただいています。記入は任意ですので、空欄でも構いません。また、ご住所へ送付物などお送りすることはありません。
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一度教会に行くと、続けて行かなければならないのですか?教会へは来たいと思った時にお越しください。礼拝などは決して強要するものではありません。礼拝意外にも、牧師に話を聞いて欲しいとき、心が疲れたとき、イベントがあるとき、などご自由にお越しください。
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イエス・キリストは実在する人物ですか?確かに実在した方です。 聖書以外で、かつクリスチャンではなかった、ユダヤ人歴史家フラビウス・ヨセフス(紀元37-100年)が『ユダヤ古代史』に、古代ローマで最も偉大な歴史家コルネリオ・タキトゥス(紀元55-120頃)が『年代記』に、イエス・キリストの実在を書き記しています。 そして、『新約聖書』に収められている四大福音書とパウロの書簡は、イエスの死後20〜60年の間に書かれていることが、歴史上の事実として認められています。 また、ヨハネを除いた10使徒及びパウロは全員殉教し、初代教会から受け継がれていった膨大な数のクリスチャンも殉教しています。 人は架空の人物やインチキな教義のためには死ねません。 火あぶりやコロシアムでライオンの餌食にされる等の残虐な刑で、全員が祈りながら平安のうちに亡くなり、天に召されました。 現代に生きる私たち教会員もイエス・キリストが生きておられることを確信し、祈りで交流し、日々慰めと力と勇気をいただいています。
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イエス・キリストは神から遣わされた人間ですか?父なる神様から遣わされた人間であり、神様です。 旧約時代は神の御使い(神と同等)として、また、神ヤハウェの「ことば」として語られたことが、全て旧約聖書に記されています。 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 この方は、初めに神とともにおられた。 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネ 1:1-3) 新約時代では人間でありながら、神にしか持つことができない権威と主権で語られています。 キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、 自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。(ピリピ 2:6-8) 人でなければ死ねません。 神でなければ救えません。 イエス・キリストは、全人類への神様からのプレゼントです。
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イエス・キリストはマグダラのマリアと結婚して、子孫がいるんですよね?映画『ダ・ヴィンチ・コード』をご覧になられたのでしょうか。 もしくは『失われた福音』をお読みになられたのかもしれませんね。 それで一杯食わされてしまったという状態でしょうか。 こういう映画や書籍で行われていることを「プロパガンダ」といいます。 「政治的な意味合いを持った宣伝行為」というような解釈をされている言葉ですが、その実態は、特定の価値観や思想に仕向ける「洗脳」です。 戦後、日本はアメリカの属国となり(決して独立国ではありません)、これでもかこれでもか!と、今に至るまでこの手法を駆使され、日本人は情報弱者となってしまいました。 残念ながら、メディア(新聞・雑誌・書籍・映画・TV)には本当の情報は出てこない仕組みになっています。 聖書に記載のない誤った情報を流す者たち、 聖書に独自の解釈を加え、自己に都合の良い教義に捻じ曲げている者(異端・カルト)は、正しい信仰に入らせないようとする反キリストです。 話を元に戻しましょう。 イエス・キリストは生涯独身でした。 神様であるお方がこの世に降臨されたのは、罪の奴隷となった全人類を救出し、ご自身の尊い血の贖いにより、父なる神様の人間への怒りをなだめ、人間の罪を帳消しにするために十字架上で死なれました。 人の子は、失われた人を探して救うために来たのです。(ルカ 19:10) 神様は人間の女性と結婚しませんし、する必要がありません。 人間の女性と性行為をして子孫を残す必要性が全く無い存在のお方なのです。 そして、イエス・キリストが愛しているのは父なる神様と、全ての人間です。 何と有り難いことでしょうか! ちなみに、マグダラのマリアは中年女性です。 当時のイスラエルの若い女性たちは、親元や夫の元を離れて旅をすることを許されていませんでしたので、他のイエスに従った女性たちと同じように夫をおいて出たか、寡婦であった可能性が高いと言えましょう。 当時、中年女性が未婚であった可能性は極めて低いです。
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釈迦とイエス・キリストはどちらが偉いんですか?比較しようにもしようがありません。 なぜなら、釈迦は「人間」であり、イエス・キリストは「神様」だからです。 確かに釈迦は仏教の開祖であり、偉大な宗教家でしたが、死からは逃れられませんでした。 が、イエス・キリストは磔刑後三日目に死から復活しました。 多くの弟子が証言者です。 そして今でも生きておられます。 わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ 28:20) どれだけ偉業を成したとしても、人間は有限の存在です。 そしてこの世の始まりから今まで、永遠に生きている人間が皆無であるということは、あなたもよくよくご存知でしょう。 決して逃れられない死後、全ての人間は神様により裁かれます。 その裁くお方は無限の存在です。
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聖書は神話ですか?歴史書ですか?聖書は神話でも歴史書でもありません。 全巻を通して読めば、同時に歴史も判ることにはなりますが。 様々な年代の信仰者や預言者が神から御霊をいただき、その霊を通して書き記した書が聖書です。 すなわち、聖書に書かれてある全ては神のみ言葉です。 今も生きておられる神様が人間のためにご自身を啓示して下さいました。 聖書は神様からあなたへのラブレターです。
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聖書の何を信じているのですか?クリスチャンは聖書の中に記されている言葉が神の霊感によって書かれたと信じています。 イエス・キリストを神の子として信じ、イエス・キリストによる救いを信じています。 イエス・キリストの救いを簡単に説明すると次の通りです。 聖書には天地創造主なる唯一の神がいらっしゃることを述べています。 そして、神が人間を創造したことを記しています。 人間には自由意思が与えられ、神に従って生きることも、神の教えに反して、生きることもできました。残念ながら、最初の人類は神の教えに反して生きたため、人間に死が入り、様々な災いが及ぶようになりました。そして誰でも、人は罪の心を持つようになりました。 神を信じずに、神の教えに背を向けて、生きることを罪と呼んでいます。 罪の生活をすれば、たとえ物質的に恵まれ、祝されていても、心は空しく感じ、死後滅びに至ると聖書は述べています。 しかし、神は人を愛し、人を罪から救うために神の子イエス・キリストを遣わしました。 新約聖書のヨハネ3:16には神の愛と救いが次のように記されています。 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。ヨハネ3:16 イエスが十字架にかかり人類の罪を背負って身代わりに死ぬことによって人類に救いの道が開かれました。そして、イエスは死後三日後に墓から甦り、40日間500人以上の人々に現れました。それから弟子たちの、前で、天に引き上げられました。そして、このイエスが、世の終わりの時に再びクリスチャンたちを迎えに来てくださる。 これらの事柄をクリスチャンは信じています。 クリスチャンは、イエスを信じるときに永遠の命を受け、救われ、地上では霊的な喜び平安、生きる目的が与えられ、死後天国に行けるという事を信じます。
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クリスチャンにならなければ救われないのですか?まずお答えしなければならないことは、クリスチャンになっても救われない方がいらっしゃるということです。 意外に思われたかもしれませんが、 ・教会の集会や礼拝に出席している ・教会で奉仕をしている ・献金をしている ・習慣で礼拝だけは出席している といった行いだけでは救われません。 ・キリストは、私たちの罪のために死なれたこと ・キリストは葬られたこと ・キリストは三日目によみがえられたこと 以上の三つを受け入れる必要があります。 これらを信じられなければ、人に優しくしても、親切にしても、その他人間の解釈でどのような良い行いをしても、残念ながら救われません。 父なる神様のひとり子であり、御父のみ心のまま、人間の罪のために死ぬためだけに地上に降臨されたイエス・キリストを信じなければ、人間は自分の罪の中で死ななければなりません。 「教会時代=恵みの時代」と言われる現代においては、最愛の御子を主として迎え入れ、過去を悔い改め、その御名を通して告白する人は、神様から過去の罪を帳消しにしていただけ、祝福され、永遠のいのち、すなわち、天国で永遠にいきることができる権利をいただくことができます。 素晴らしすぎるプランですね。 そして、キリストに従う人間は、主の御心にかなう器に変えられていきます。 そこからの行いが重要なのは言うまでもありません。
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