2021.11.21歴史講演会Ⅰ「ローマ・カトリックによる日本宣教」
歴史講演会Ⅰは主題「ローマ・カトリックによる日本宣教」ザビエルから江戸末期まででした。 歴史講演会Ⅱでは、「プロテスタントによる日本宣教」と題して、幕末開国~現代を再び小塚牧師に講演いただきます。
歴史にご興味ある方は、次回もご期待ください。 次回も午前礼拝、昼12:00~講演会です。 未信者の方は講演会のご参加だけでも歓迎いたします。 ✟✟✟✟✟✟✟✟✟✟✟✟✟✟✟✟✟✟✟✟ 第一章 ローマ・カトリック教会による日本宣教
宗教改革のうねりとイエズス会
1517年11月、ドイツの大学で教鞭を取っていたマルティン・ルターは、僧籍売買や免罪符の発行を批判した95か条からなる質問状をローマ・カトリック教会に突きつけました。ルターの主張は一般の民衆に受け入れられたのみならず、ドイツ諸侯の支持を受け、北ヨーロッパ一円に広がり、過激な宗教改革者を生み、イギリスでは国教会を成立させるに至りました。 このような宗教改革運動の大きなうねりの中で、ローマ・カトリック教会は自己変革を強く迫られることとなりました。失地回復、教会再興の試みで新しい修道会の発足を促しました。 1534年にパリでイグナチウス・ロヨラ、フランシスコ・ザビエルら6名によって創設されたイエズス会は、実際には自己の内面に深く掘り下げキリストに出会い、精神修養をすることによってキリストの伴侶となって神の仕事をすることを目的としていました。戦闘的修道会、教育重視の修道会
1540年ローマ教皇パウロ3世によって聖職者修道会として認可され、教皇の指示を仰いで世界の果てまで赴き、神の栄光と人々の救霊のために働くことを使命とする団体となりました。
インドでの失望と日本宣教へ
インドの植民地支配に行き詰まっていたポルトガル国王は、ローマ教皇にイエズス会員をインドへ派遣することを願って許されました。イエズス会による東洋宣教の幕開けです。 イエズス会総会長ロヨラは、イエズス会創設メンバーの一人であるフランシスコ・ザビエルをインドに派遣することとしました。1541年、リスボンで同僚と別れたザビエルはインドに船出し、再びヨーロッパの地を踏むことはありませんでした。
1542年インドに到着したザビエルは、模範を示しながら伝道活動に勤しみました。キリスト教をヨーロッパ式に伝えるのではなく、その地に住む民の民族性や習慣に合わせて宣教する、「適応主義政策」というスタイルを採用し、そのやり方は効果を上げているかに見えました。
しかし時が経つにつれ、ザビエルは失望を感じるようになりました。それは改宗してキリスト教徒となったインド人が浅薄かつ不熱心で、利益にばかり目を向けていることが理由でした。もう一つの理由は、インドに滞在するポルトガル人の不摂生と堕落した生活が、キリスト教をのべ伝えるのに妨げとなったことです。文化の低いインドには強圧的に宣教
1547年12月、マラッカで、日本で罪を犯して魂の救いを求める青年ヤジローがザビエルの元を訪れました。ヤジローの知性と信仰に対する真摯な姿勢に感動を受けたザビエルは、最初のカトリック信者となったヤジローに日本人がキリスト教に改宗する可能性を問い、日本宣教を考え始めました。
一旦ヤジローをインドのゴアにある修道院に送り、キリスト教の教理を学ばせたザビエルは、1549年4月、日本宣教のために旅立ちました。
1549年8月15日、ザビエル一行は鹿児島県の港に到着しました。鹿児島(薩摩)はヤジローの故郷であったので、まずはヤジローの親類縁者がキリスト教について聞くこととなり、受洗者を生み出すようになりました。 その後1ヵ月半経ってようやく薩摩の領主、島津貴久を訪れて会見することができ、薩摩での居住と布教を許されました。島津氏はポルトガル商船が領内の港に来ることを期待して、ミヤコ(天皇のいる京都)に行こうとするザビエルを留めたので、ザビエルの薩摩滞留は約1年にも及びました。
約100人が信者になったとされています。
ミヤコでの困難、山口へ
しかし、早くミヤコに行き天皇に謁見して日本での布教の許可を得たいと考えていたザビエルは1550年9月、平戸へと船出しました。そして平戸でも100人ほどの者をキリスト教に導き、フェルナンデス修道士と共に京都へと向いました。
ミヤコに到着したザビエルは、荒廃した様子に呆然としました。群雄割拠そして下克上の時代で、度重なる戦乱と兵火のせいで、京都の半分以上が焼け野原となっていたのです。天皇に会おうとしても、その天皇さえも力を失って逃れているという状態でした。 再び瀬戸内海を渡ったザビエルは、往路ひと月ほど滞在した山口の街を再訪しました。山口の領主大内義隆は、外国の優れた文化を受け入れることに積極的で、山口の街はミヤコよりも京風の雰囲気にあふれ、治安も安定していたので、ここで宣教活動をすることに計画変更したのです。大内氏から布教の許可を与えられたザビエルは、毎日街の大通りに出向いて路上伝道を試みました。 そこでザビエルが発見したのは、死後の世界と救済に関心を抱く日本人の姿でした。財物よりも名誉を重んじること、善良で悪意のない国民性など、ザビエルは日本人について大変好意的な印象を持ちました。 特に山口での宣教の日々を、「私の人生の中で、この救霊のために話を聞こうとする日本人にのべ伝えた毎日ほど、充実した日々はなかったと、本当に言うことができます」と手紙の中で書き記しています。半年間で500人ほどが洗礼を受けました。(盲目の琵琶法師=ロレンソ)
ザビエルの死
来日から2年3か月が経過した1551年11月、ザビエルは一旦インドに戻ることを決意しました。中国宣教の足がかりを整えるためです。 日本における改宗事業を進めるためには、精神文化をはじめとしたあらゆる面で日本に影響を与え続けてきた中国を無視することはできないと、ザビエルは強く感じていました。キリスト教が中国でも受け入れられれば、中国から伝来した仏教諸派は、キリスト教に耳を傾けざるを得なくなるとザビエルは予想し、行動に移したのです。 しかしこの挑戦はザビエルの死をもって中止されました。鎖国している中国への密入国を果たそうと沿岸の小島に待機していたのですが、手引きをしてくれるはずの中国人は現れず、ザビエルは熱病にかかって命を失ったのです。彼が死を迎える最後の日々に綴った手紙の中には、日本への宣教師の派遣と支援をつづけてほしいと頼む内容が書かれています。
織田信長とキリスト教
日本にキリスト教が入って来たのは、戦国時代。織田信長(1534~82)が天下統一を目指して邁進しているときでした。ヨーロッパから伝来した鉄砲を活用することで、駿河の雄 今川義元を撃破した信長は、同じヨーロッパからのキリスト教にも深い関心を寄せ、宣教師らに好意的に接しました。 信長と直接18回も会った宣教師ルイス・フロイス(1532~1597)によると、「彼(信長)は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、ならびにあらゆる異教的卜占や迷信的慣習の軽蔑者」でした。 このような信長にとって、比叡山の焼き討ちや石仏を石段に転用するなどのことは何でもないことでした。特に世俗に溺れ堕落していた仏教僧には憎悪ともいうべき過酷さで対しました。
信長はイエズス会士たちに破格の厚遇を示し、彼の居城となった安土の城下町に教会を建設するように言い、日本巡察師ヴァリニャーノが資金不足ですぐに実現できないことを伝えると、信長は建設費用の援助を申し出るほどでした。 このような信長の保護を受けて、キリスト教は西日本に広がり繁栄していきました。
宣教師44人
信長の果断な性格を知る教会側では注意を怠りませんでした。海外からの新しい知識と貿易による利益が目的であることが明白で、宣教師の清廉潔白さに感心はするものの、信長自身には信仰心がないことを見抜いていたからです。 信長は晩年、権力の頂点に至るにつれて自らを神とする思想を持つようになりました。信長自身が礼拝されるべき神体だとし、礼拝する者には長寿や健康、繁栄がもたらされると言いました。また城内に「盆山」と称する石を置き、自分の誕生日には神体代わりに拝ませました。
1582年6月21日(天正10年6月2日)、京都の本能寺に宿泊していた信長は家臣の明智光秀に討たれて自刃しました。 信長後の後継者争いは、「中国大返し」をして帰京し山崎の戦いで勝利した秀吉が、後継問題を左右する清洲会議で主導権を握り、実質的に後継者の地位を確立することとなりました。 イエズス会の報告書では、信長が自身を神として崇拝させようとしたことを悪魔の働きだとし、それから間もなく彼が本能寺で滅亡したことを、デウスの裁きであると断じています。
ヴァリニャーノの改革
1539年ナポリの名門貴族の家に生まれたヴァリニャーノは、1579年に初めて日本に上陸しました。彼が来日したとき、日本のキリシタン信徒数は約10万人とされ、ザビエル来日から30年で大きな実を結んだと評価されていましたが、内側には様々な問題がありました。 その主な原因は布教長カブラルの偏狭な日本人観とそれに基づく誤った宣教方針でした。カブラルは日本人を蔑視していたので、宣教師に日本語を覚える機会を与えず、日本人信徒が同宿(どうじゅく。宣教師の手伝いをする者)以上の指導者になる道を封じていました。 これにより、日本人をこよなく愛し現地主義を採る宣教師オルガンティーノと対立し、教会内に不満と誤解が充満していたのです。ヴァリニャーノは1年間日本に滞在し、日本人を考察し解決策を探し、日本に来ている宣教師を集めて会議を開きました。
会議で改革案を掲げたヴァリニャーノは全国の宣教師から支持を取り付けました。会議後、自らの考えに固執するカブラルに代えて、ヴァリニャーノは初代日本準管区長にコエリョを任命。日本人同宿の待遇改善も図られ、神学教育のためのセミナリヨ(小神学校)が設置されることとなりました。(安土、山口、有馬) このような改革を受けて日本の教会は息を吹き返し、1580年代に飛躍的な成長を遂げました。宣教師たちは信徒獲得に努める一方で、時の権力者とも積極的に会い交渉しました。ヴァリニャーノは1581年に京都に入り、信長に謁見しましたが、キリスト教に興味を覚えた信長は以後たびたびヴァリニャーノを厚遇しています。
天正遣欧少年使節とキリシタン大名
また1582年の帰国にあたり、キリシタン大名の名代として日本人の少年たちをヨーロッパに派遣することを計画しました。これが天正遣欧使節です。ヨーロッパで日本宣教の成果を示すと共に日本への関心を高めようとするもので、同時に少年たちがヨーロッパでキリスト教文化を見聞し吸収することで、後に日本でそれを広く伝えることを期待していました。
宣教が進むうちに、各地の大名や城主の中にも自ら進んでキリシタンになる者が出てきました。キリシタン大名、キリシタン城主とよばれる人たちです。日本で最初にキリシタンとなった大名は、今の長崎県を支配していた大村純忠です。大村純忠は長崎と茂木港をイエズス会に寄進しました。
当時は戦国時代だったので、鉄砲に代表される西洋の最新の技術を入手できる南蛮貿易は、大名にとって大きな魅力であり、貿易と密接なつながりを持つ宣教師たちと交渉することは、その取っ掛かりになるだろうと期待されました。なのでキリシタン大名とよばれる者たちは、最盛期には30数名にも上りました。
1580年代において、キリスト教信者は35万人、総人口2400万人に対して、1.6%でした。
戦乱、一揆、天災など混乱と明日をもしれぬ不安 集団改宗(封建君主からの宣教)
大村純忠 全家臣・全領民の改宗6万人のキリシタン
ヴァリニャーノが企画した天正遣欧使節は、九州の3人のキリシタン大名、大友宗麟、有馬晴信、大村純忠の名で派遣されることとなりました。ローマ教皇とポルトガル国王に日本の教会の挨拶を伝え、教会のために必要な援助を求めること、帰国してから日本人に西洋とキリスト教の栄光を適切に紹介することがその目的でした。 正使は伊東マンショと千々石(ちぢわ)ミゲル、副使は中浦ジュリアンと原マルチノです。 1582年に長崎港を出帆。ヴァリニャーノと若いポルトガル人宣教師ディエゴ・メスキータも一緒でした。途中のゴアでヴァリニャーノはやむを得ず使節から離れますが、一行はゴアから喜望峰をまわってポルトガルに向い、1584年にリスボンに上陸しました。 そして1585年、ようやくローマに着き、教皇グレゴリオ13世に謁見。ところがグレゴリオ13世はそのわずか数日後に帰天したので、使節たちは次の教皇シクストゥス5世の戴冠式にもあずかることができました。
遣欧使節の帰国
使節たちは栄光に満ちたヨーロッパ旅行を経験しましたが、思いがけず往復9年弱もの長旅になったので、1590年に帰国した使節団は日本の変貌に驚くほかありませんでした。使節が出発した3ヵ月後に信長は本能寺に斃れ、1587年に秀吉は伴天連追放令を出していたのです。 宣教師として来日することができないヴァリニャーノは、インド総督の使節として再来日し秀吉に謁見を申し出、4人の少年たちと京都の聚楽第に赴くことを許可されました。秀吉は4人の少年たちと歓談し、彼らが奏でる音楽に耳を傾けました。 秀吉は禁教令を取り消すことはしませんでしたが、少年たちのうち誰か1人自分に仕官するつもりはないかと問いかけるなど、面会は終始和やかなものとなりました。この頃までは秀吉の禁教令も厳しいものではなく、キリシタンの間にもいずれ禁教も解かれるのではないかという楽観論が広がりました。
キリシタン大名高山右近
貿易という現世利益を目的としたキリスト教受容は、キリスト教禁令が出されるともろくも崩れ去りましたが、その中で最後まで一貫して信仰生活を維持した者もいました。大村純忠や高山右近、大友宗麟などです。また表面的には秀吉に屈し棄教したように見せかけながら、信仰を持ち続けた者もいます。小西行長や黒田如水(黒田官兵衛)をその例として挙げることができます。
しかし「キリシタンをやめるか大名をやめるか」と迫られて、領地を返上して一介の浪人となり、果てには国外追放にまでなっても信仰を捨てなかった大名は、高山右近だけです。父である高山図書が日本人修道士ロレンソの説教を聞いて入信を決意したことから、一緒に洗礼を受けることとなった右近は、追放先のマニラで生涯を終えるまで信仰の模範を示しました。
伴天連追放令が出されるまで
信長の死後天下を獲った豊臣秀吉も、当初キリシタンに対しては好意的でした。しかし日本管区を任されたコエリョは、ヴァリニャーノ与えた訓戒を忘れ、次第に政治に介入していくようになります。1586年、九州のキリシタン大名大友宗麟は、島津氏の猛攻を受けて領土を失いそうになり、秀吉に援軍を要請しましたが、この際コエリョは自らも大坂に上り秀吉に軍事援助を申し出たのです。 1587年初頭、秀吉は援軍を送って島津氏を制圧しましたが、心労がたたった大友宗麟は6月に死去し、それに先立つこと1ヶ月前には大村純忠が亡くなって、キリシタンの保護者が相次いで失われることとなりました。 島津氏の討伐で九州入りした秀吉は、九州の主だった大名の多くがキリスト教に入信して、しかも熱心であることに気づきました。そして彼らが信仰のゆえに宣教師の言いなりになり、外国勢力と手を携えて日本を奪うのではないかという疑念を抱きます。大村純忠が長崎を寄進したこともまた、教会に領土的野心があると疑わせる原因となりました。
コエリョの政治介入と妄挙
箱崎に陣を設けた秀吉は、政治的な手腕を発揮して次々と実行していきました。大名や有力な商人との会合や博多の視察などです。九州を平定した後には朝鮮、中国への侵攻を秀吉は考えていたのです。そこへコエリョはフスタ船でやって来て、秀吉を乗せて博多湾をめぐりました。 秀吉は機嫌よさそうにコエリョに接しながら、様々な質問を投げかけました。秀吉の疑心を見抜いた高山右近と小西行長は、コエリョにフスタ船を秀吉への贈り物にするように勧めましたが、コエリョはこれを理解せず、そうしませんでした。
伴天連追放令
博多湾を回った5日後、秀吉は態度を豹変して、まず高山右近にキリスト教を棄てるよう迫る書状を送りました。右近は棄教を拒み、説得のために送られた千利休にもその意志が固いことを告げて宿舎を立ち去りました。続いて秀吉は5か条からなる伴天連追放令を発して、20日以内に宣教師は全員日本を退去すべしとしたのです。 すべてうまくいっていると考えていたコエリョにとっては晴天の霹靂で、慌てたコエリョはフィリピンに軍事要請しましたが断られ、ショックで病に伏せるようになりました。再来日したヴァリニャーノにも、コエリョは各位に働きかけて大規模な軍事援助を要請すべきだと訴え、自らの不明と妄挙がこのような事態を招いたのだということを認めないまま没しました。 ヴァリニャーノは不穏当な大砲を売却し、秀吉の疑いを解く努力をしましたが、伴天連追放令は解かれず遺恨を残すこととなりました。
禁教後の動き
伴天連追放令を出すと、秀吉は高山右近を改易して追放、続いてキリシタン大名たちに棄教するよう命じました。そこで洗礼を受けたばかりの黒田長政、大友義統、大村喜前が命令に屈し、小西行長は命に服した振りをしながら追放された右近らを領地に匿いました。また黒田官兵衛、蒲生氏郷、有馬晴信は秀吉に楯突かずに信仰を守る道を選びました。 宣教師とセミナリヨの生徒は長崎の島に集められ、畿内の教会は破壊されました。多くの信徒がいた長崎でも教会は閉鎖され、高山右近はオルガンティーノ神父と小西行長の領地であった小豆島に隠れました。公然と禁教令に反対する大名は一人もおらず、自分の権威が認められているのを見た秀吉は、それ以上迫害を進めようとはしませんでした。
天正遣欧少年使節団の帰国
1590年7月、長崎の港に天正遣欧使節団の4人の少年とヴァリニャーノ神父が姿を表しました。9年もの歳月をかけヨーロッパのキリスト教世界を見聞し、最新機器である活版印刷機を携えて帰国した彼らでしたが、それが生かされるかは未知数でした。世はキリスト教を禁じる禁令下となっていたからです。 しかしキリシタンにとっては希望が持てる春がやって来ました。翌1591年3月、秀吉はインド副王使節という名目でヴァリニャーノに謁見を許し、4人の遣欧使節や宣教師と共に京都の聚楽第へと招いたのです。公の儀式が終わった後の宴席で、秀吉は4人と親しく談笑し、1人に向って自分に仕官するつもりはないかと訊いたりしました。 これを機に禁教令が解かれるのではないかと期待する向きもありましたが、それは実現しませんでした。ヨーロッパを見聞した4人の青年は天草へ行き、世俗の栄達ではなく神への奉仕に生きようと、イエズス会の修練院に入りました。
運命を変えたサン・フェリペ号事件
1596年の秋、一隻の船が座礁して四国の海岸に漂着しました。マニラとアカプルコを結ぶガレオン船、サン・フェリペ号です。積荷に魅力を感じた秀吉は、土佐の大名長曾我部に命じてこれを没収しました。積荷を返してくれるよう訴えるスペイン人が、大坂から来た奉行増田長盛と言い争うようになったのですが、その中で航海士が脅しの言葉を口にしたと報告されました。 「ヨーロッパ人は宣教師を先に派遣して、後でその活動を利用してその国を征服するのだ」と。他国を侵略する前に宣教師を送ったということは、ヨーロッパ諸国の歴史にないことなので、そんなふうに言うはずがないのですが、そう報告されたために、あるいはそのような虚偽の報告をして、積荷没収等は正当化されました。 船にフランシスコ会の神父が乗っていたことも、伴天連追放令に背いているということで処罰の理由とされ、サン・フェリペ号に乗船していたフィリポ・デ・ヘスス神父は捕らえられ京都の獄に入れられました。
ペドロ・バプチスタの誤解とキリシタン捕縛
サン・フェリペ号事件をきっかけに、一気に迫害の嵐が巻き起こりました。秀吉の命を受けた石田三成が、京都と大坂のフランシスコ会教会を包囲したとき、ペドロ・バプチスタ神父は自らの誤解を認めざるを得ませんでした。バプチスタ神父は秀吉から教会用地を与えられたことを布教が認められたと解して、公然と宣教活動を繰り広げ、それをイエズス会神父からたしなめられても聞く耳を持たなかったからです。 京坂のキリシタンが数千人に上るとの報告を受けた三成は、すべての信徒を処罰するのが秀吉の意思ではないと、3千人のキリシタンの名が書かれた名簿を破棄し、教会で中心的に活動する信徒と宣教師24名を見せしめとして捕らえて牢に入れました。
26聖人の殉教
牢の中で沙汰を待つキリシタンは、そこでも役人に福音を説き、讃美と祈りで過ごしました。秀吉から下った命令は死刑。京都で両耳と鼻を削ぎ市中引き回しとし、キリシタンの多い長崎まで連行した上で磔刑にかけるというものでした。 京都の一条戻り橋の辻で、逃亡防止のために耳と鼻を削ぐはずでしたが、そこまでしなくてもよいとの三成の言葉で、左の耳たぶだけを切り落とされ、24名は京の町を引き回され、大坂や堺でも同様に見せしめのために人通りの多い道を引き立てられて行きました。道中、説教のうまかったパウロ三木は人々に宣べ伝えながら、子供たちは讃美しながら長崎への道を歩みました。 彼らの助けをするためについて来たキリシタン2名も、途中で自ら進んで受難者の列に加えられ、逃亡防止のために耳たぶを削がれたのに、逃亡どころか人数が増えるということが起こりました。
1596年に京都を出発したキリシタンたちは一月余りかけて長崎に向い、1597年2月5日、西坂の丘で十字架に縛り付けられ、槍で突かれて殉教しました。その様子は竹矢来の外と港の沖合いに浮かぶ船から数千人の人々が見守っていました。 その中にイエズス会司祭ルイス・フロイスもおり、この様子を詳細に記録してヨーロッパに送りました。これは国の最高権力者の命令による最初のキリシタン処刑で、ここからキリシタンの殉教の歴史が始まります。処刑から265年経った1862年、カトリック教会ではこの殉教者たちを聖人に列したので、彼らは日本26聖人と呼ばれています。
関白秀吉の死
26聖人の殉教から1年の後、秀吉は死去しました。死を前にして朝鮮への侵略戦争から兵を引き揚げることを命じたので、無意味で不毛な戦争から解放された諸大名は安堵の息を吐きました。秀吉は後継者の秀頼がまだ幼いことを案じて、有力な5人の大名を五大老に任じて向後を託しました。 五大老の一人として秀吉に秀頼の後見を頼まれていた徳川家康ですが、秀吉が死ぬと約束を反故にして豊臣家の切り崩しに着手します。豊臣方の重臣石田三成は家康に対抗するために、キリスト教徒の保護を約束して小西行長を味方に引き入れました。
天下分け目の関ヶ原
1600年10月、関ヶ原の戦いで豊臣側である西軍は負け、敗戦の責任を負った石田三成と小西行長は京の六条河原で処刑されました。この戦いではキリシタン大名たちの足並みは一致せず、西軍につく者もあれば東軍につく者もあるといった状況でした。家康側もキリシタンに好意的な様子を見せていたので、秀吉の伴天連追放令で傾いたキリスト教界を、家康の下で復元しようと考えた大名もいたことでしょう。 1603年江戸に幕府を開いた家康は、中央集権的な支配体制を整え始めました。大名の領地はすべて徳川将軍から与えられ、大名や武士はすべて将軍の家臣として位置づけられるという、一元的な支配構造です。このような強力な幕藩体制の枠組みの中に取り込まれていく中で、どうにかして幕府に近づきキリスト教を認めさせ、栄えさせる方向に持って行きたいと考えていたのがキリシタンたちの共通した思いでした。キリシタン人口60万人 人口2500万人
三浦按針ことウィリアム・アダムス
1600年にオランダ船が豊後に漂着し、その船にイギリス人航海士ウィリアム・アダムスが乗っていました。このイギリス人を気に入った家康は自らの顧問として置き、日本人名「三浦按針」を与えて、海外情勢などの情報と意見を聞くようになりました。 当時ヨーロッパはスペイン、ポルトガルといったカトリック国と、オランダ、ドイツなどのプロテスタント国が血みどろの戦いを続けていました。プロテスタント国側の考えを持つウィリアム・アダムスは、事あるごとにスペイン、ポルトガルの悪事を家康に訴え、敵意を植え付けました。 元々キリスト教嫌いだった家康は、支配体制を確固とするまでは宣教師に近づき利用しましたが、体制が整うにつれ態度を硬化させていきました。
マードレ・デ・デウス号と岡本大八事件
1610年長崎に入港したマードレ・デ・デウス号は、以前マカオで多数の日本人死者を出す事件を起こしたアンドレ・ベッソア司令官が船長を務める船でした。家康の命を受けたキリシタン大名有馬晴信は、長崎奉行と協力して攻撃し、行き場を失ったベッソアはマードレ・デ・デウス号に火を放って自殺しました。 この恩賞として晴信は家康から刀を賜り、息子直純の嫁に家康の曾孫国姫をめあわせてもらったのですが、そこに本多正純の家臣でキリシタンの岡本大八が声をかけてきました。自分が本多正純を通して家康に働きかけ、秀吉時代に失った領地を取り戻すことができる。そのために運動資金として賄賂が必要であると。 その話を信じ込んだ晴信が大八に賄賂を送りましたが、すべては大八の狂言でした。大八は晴信に偽の宛行状(あてがいじょう)まで与えて信用させましたが、家康からは一向に領地の話が出ず、しびれをきらした晴信が本多正純に問い合わせたことから、すべてがウソであることが露見しました。
禁教令の発布と教会取り壊し
晴信は駿府で大八と対決し、大八の虚偽が明らかになったので、大八は安倍川で処刑されましたが、所領に関して贈収賄が行われたことを重く見た家康は、晴信を甲斐へ流刑とし、そこで死ぬよう言い渡しました。これを岡本大八事件といいますが、この事件の当事者が共にキリシタンであったことは、家康のキリスト教嫌いを決定的なものにしました。 1612年家康は幕府の名で、幕府直轄地にキリスト教禁令を発しました。江戸や駿府の教会は取り壊され、キリスト教を信じただけで罪人とされることとなりました。
1614年の禁教令で全国へ拡大
直轄領に出された禁教令は1614年1月24日、将軍秀忠の朱印を押して全国に発布されました。この「伴天連追放文」は金地院崇伝が起草したとされています。金沢で客将となっていた高山右近の元にも追放の命令が届き、内藤如庵と家族らと共に長崎に向い、そこからマニラへと流されました。畿内にいた他の主だったキリシタンたちは津軽に流刑となり、食べるのにも困る生活を強いられました。 個人の政策ではない スケープゴートとされた
①封建制度の厳しい身分制度 ②切腹による自殺美化
③家紋継承のための一夫多妻制 ④神国思想による自己神格化 1616年家康は死去し、江戸と駿府の二元政治は終わりましたが、第二代将軍秀忠は「伴天連宗門御禁制奉書」を発して、より鎖国体制を強固なものにしました。また秀忠は国民を監視しやすくするため五人組を組織。幕府の目からは何人も逃れられない構造が作り上げられていきました。
将軍秀忠と大殉教
家康の死後、二代将軍となった秀忠は単にキリスト教禁令を踏襲したのではなく、そこに鎖国体制を加えることで、より強力な弾圧体制を布いていくこととなりました。駿府との二元政治も終わったため中央集権的な指令系統となり、日本全国で一貫した政治が行われるようになったのです。 1619年、天皇へのデモンストレーションとして、伏見に大軍を率いてやって来た秀忠は、キリシタンが京都にいることを聞いて激怒。主だった信徒を捕らえて処刑するように命じました。そこで橋本七右衛門一家を始めとする52名が火刑に処されて殉教しました。これを京都の大殉教といいます。
家光の将軍就任とキリシタン処刑
秀忠の隠居後、将軍職を継いだ家光は、自らを「生まれながらの将軍」であると、居並ぶ大名たちを前に宣言し、徳川幕府が確固たるものとなったことを認識させました。また就任祝いに江戸に参府した諸大名たちを札の辻に集め、そこでヨハネ原主水らキリシタンと宣教師50名を火焙りにしました。 これは各藩でこのようにキリシタンを処刑し、根絶やしにしなければ、藩主たちの責任を問うという意思表示で、その意向を重く受け止めた諸大名は、自領に戻って信徒の検挙と処罰に力を注ぐようになりました。
雲仙の地獄責め
各地で迫害の嵐が巻き起こり、殉教者は数え切れないほどに上りました。殉教者たちが死さえも恐れず命を捧げるのを見た信徒たちが、天国が確かなものであると確信し、信仰に栄誉を与えるのを見た役人は、キリシタンを殺すのではなく、棄教させる方向へと方針転換をします。 そこで考え出されたのが、地獄と呼ばれる熱湯の吹き出し口に、信徒を入れては出すという拷問でした。長崎の雲仙で行われたので、雲仙の地獄責めと云われています。パウロ内堀やアントニオ石田神父などがその拷問を受けましたが、肌を溶かすほどの熱湯から引き出されるたびに神の名を呼び、信仰を捨てることはありませんでした。水責め、俵責め、焼き印、穴づりの刑 そのためこの拷問は数年間で取りやめとなりました。各地での殉教者の姿は信仰の証となり、天への栄光となりました。
各地のキリシタン拷問と殉教
絵踏みは、キリスト教徒ではないしるしとして、聖画やメダイをはめ込んだ板(これを「踏絵」という)を踏みつけにするもので、最初に行われたのは1632年、雲仙の殉教のときでした。その後は習慣のようになり、特にキリシタンが多かった長崎では年中行事の一つとして暦にも記されるようになりました。 穴吊りが最初に行われたのは、1633年、日本人修道士ニコラオ永原の殉教のときでした。2メートルほどの穴を掘り、その上に体を縄できつく縛った信徒を逆さに吊るすというものです。頭に血が上ってすぐに死んでしまっては拷問の意味がないということで、苦しみを長引かせるために額などを切って血を流させました。信徒が苦しみに耐え切れず「転ぶ」ことを期待した拷問でした。 この穴吊りの拷問を受けて、天正遣欧使節の一人であった中浦ジュリアン神父は殉教し、中浦神父と並んで吊るされていたフェレイラ神父(沢野沢庵―沈黙)は棄教しました。
天草・島原の乱
キリシタンによる農民一揆として世に知られる「天草・島原の乱」のきっかけになったのは、領主による搾取と虐待でした。島原城主松倉勝家は島原城建設費用捻出のために、領民に重税を課し、払えない者に蓑を着せて火をつけて殺した(「蓑踊り」とよんだ)り、妊婦を呼び出して冷たい水に漬ける等の暴挙を行いました。海を挟んだ天草では、領主寺沢堅高による「縄延ばし」(実際より多い石高を見積もって税を課すこと)が行われ、領民は重税にあえいでいました。 1637年、天草と島原の農民は、松倉勝家と寺沢堅高に向って反旗を翻します。彼らのリーダーとして立てられたのは天草四郎時貞。洗礼名はジェロニモで、当時18歳でした。四郎の父は小西行長の元家臣で、父やその他の浪人が戦術的な指導をしていたと考えられています。 当初は破竹の勢いで進軍しましたが、森岳城を奪えなかったところから旗色が悪くなり、海を渡って原城に立て籠もることとなりました。幕府は板倉重昌の指揮下に、大名たちを集めて攻撃しましたが城を落とせず、第二陣として松平信綱が12万の幕府軍を率いて城を囲み、オランダ船からも砲撃を行わせて圧迫しました。
原城の落城
籠城した者たちはよく耐え抜きましたが、ついに武器も食糧も尽き果てて、1638年総攻撃を受けて1万7千人の男子は皆戦死しました。落城の翌日、武器を取ることもせず城内の堀に隠れていた女子供2万人が一人残らず殺されました。原城内で唯一生き残ったのは、一揆軍を裏切り敵の手引きをしようとした絵師山田右衛門作だけでした。 天草四郎と一揆の指導者の首は、長崎に運ばれ出島の橋のたもとに晒されました。その後将軍家光はキリシタン弾圧をより徹底して行うよう、各地の大名に厳命。キリスト教禁令は幕府がある限り存続する決定的なものとなりました。
①宗門改 お寺に登録 戸籍と同じ ②寺請制度 証文は身分証明書 ③絵踏 ④五人組の連座制 ⑤キリシタン類族改 5代まで監視 ⑥訴人奨励の報奨制 ⑦鎖国完成214年
宗門改役 井上政重
のちに宗門改役として辣腕を振るうようになる、井上政重は1585年遠江(とおとうみ。現在の静岡県)に生まれました。父は横須賀城主に仕える武士でしたが、亡くなってしまい、井上政重は4男だったため、江戸に出て将軍家に仕える道を選びました。 井上政重は1637年に勃発した天草・島原の乱に出陣し、現地と江戸を行き来して、戦いの趨勢がどうなっているかを報告する役目を果たしました。そして1638年、乱が鎮圧されると、それを将軍家光に報告し、その際に、「キリシタン宗を徹底的に根絶すべきです」と進言しました。 このことが井上政重を出世させる糸口になりました。1639年、東北地方で捕縛されたイエズス会の宣教師3人が、江戸の小伝馬町の牢に送られてきて、家光の側近である老中たちが取り調べましたが、あまりキリシタンに関して知識がなかったので、話がよく通じませんでした。 そこで老中たちは相談の上、この件を井上政重に一任することとしました。井上政重はどこで学んだのか、キリシタンについてとても詳しく、その心理や突かれると痛い所をよくわきまえていたのです。一説には井上政重は一時期キリシタンだったとも言われています。井上政重は宣教師の取調べを10回にわたり行って、キリシタン宗の扱いに慣れた専門家であるという評価を得ました。 1640年、幕府は新たに宗門改役という役職を設置して、初代宗門改役に井上政重を就任させました。そして6千石を加増して、1万石の大名に昇進させたのです。 切支丹屋敷
旗本から大名に格上げされた井上政重ですが、どこかの藩主になったわけではないので、城持ち大名のように江戸に上・中・下の屋敷はなく、自分が住む屋敷を神田に持っていただけでした。しかし大名格ともなれば、それでは手狭であろうということで、幕府から下屋敷用の土地を小日向に与えられました。
現在の文京区小日向にあたる場所ですが、そこに下屋敷を建てた井上政重は、この屋敷に宣教師や主だったキリシタンを収容して、転ばせようと考えるようになりました。なまめかしい女性と一緒に牢に入れて、宣教師を誘惑させ、堕落させて、神父は一生独身の誓いを立てているのですが、それを破らせることで、信仰を奪ってしまおうとしたのです。
江戸時代、罪人は小伝馬町にあった牢に入れられていたのですが、そこに宣教師やキリシタンの中でも影響力のある者、指導者たちを入れると、牢内で宣べ伝えをして、そこで信徒を作ってしまうという、幕府にとっては悩みタネがありました。それを解消するためにも、それらの者たちは分けて入牢させた方がよかろうと考えたわけです。
最初は井上政重個人の下屋敷でしたが、1646年からは正式にキリシタンを収容する切支丹屋敷となりました。こういう屋敷を「山屋敷」と呼んだので、江戸切支丹山屋敷ということもあります。その代わり井上政重は霊巌島に新しく下屋敷を拝領し、切支丹屋敷はキリシタン専門の牢として、一つの政府機関となり役人が常駐するようになりました。この切支丹屋敷に1641年頃からイエズス会士2人が入れられ、2年後には武士階級のキリシタンなど20人弱が収容される状態になっていました。
転びバテレン フェレイラ
ここで幕府側の手下として働いていたのが、転びバテレン フェレイラでした。1633年10月、長崎の西坂で、中浦ジュリアン神父ら6人と共に穴吊りにされたフェレイラは、イエズス会日本管区長代行で、日本宣教23年に及ぶ大ベテランでしたが、わずか5時間で棄教して穴から引き上げられました。他の6人は殉教。誰もが「あの人ならば立派に殉教を遂げるだろうと」言っていたフェレイラだけが、信仰を捨てて生き残ったのです。 そしてキリシタン目明しとして、迫害側に回って働きました。日本名、沢野忠庵を名乗り、日本人妻を娶って、その妻の連れ子と暮らしました。1644年には排耶書(はいやしょ。キリスト教が邪教であると主張する書物)である「顕偽録」などを著しました。 殉教者マストリリ神父
フェレイラの棄教がヨーロッパに伝えられると、イエズス会はもちろん、カトリック世界全体に大きな衝撃を与えました。それで、自分の血で、この棄教者の罪を償おうと、日本行きを願い出る修道者が多く出ました。ナポリの公爵の息子として生まれたマストリリ神父もその一人でした。イエズス会を代表する神父が拷問に屈して信仰を捨てたなど、到底信じることができず、また万が一そうであったなら、そのままにしてはおけない、まずは信仰に立ち返るように説得し、それが叶わないならば、自分が代わりに命を捧げて、神様に贖罪しようと、そう考えたのです。 幾多の地域を経由して1637年、日本に到着したマストリリ神父は、すぐに捕らえられ、長崎に護送されました。そして長崎奉行に引き渡された神父は、丸2日間水責めと梯子責めにされ、それでも立派に受け答えするので、刑場に連行されました。そこで役人たちは神父を裸にし、熱く熱した焼き鏝を陰部に押し付けて焼きました。マストリリ神父は、「私は我が身のすべてを神に捧げているので、いかなる苦しみも拒みはしない。しかし私の手足だけではまだ足りず、人間の羞恥心を傷つける、このけがらわしい拷問は、いかなる野蛮人も行わないものだ」と言い、これを聞いた役人は止めました。 しかし今度は穴吊りにされ、息絶え絶えのまま4日間放置されました。それでも不屈の精神を見せたため、奉行は穴から引き出して、斬首に処しました。遺体は寸断された上、焼いて灰にされ、川に捨てられました。マストリリ神父はフェレイラと会わぬまま殉教しました。 無残 フェレイラ救援隊
フェレイラのために日本にやってくる者は、これで終わりではありませんでした。この後第一次、第二次と、二度にわたり、フェレイラ救援隊が日本を目指しました。1642年、ルビノ神父を団長とする、第一次フェレイラ救援隊7名が、鹿児島の下甑島に上陸しました。洞窟に隠れましたが、すぐに見つけられ、長崎に護送されましたが、奉行所で取り調べを受ける際に通訳として呼ばれたのが、他ならぬフェレイラでした。
ルビノ神父はキリシタンの教えについて奉行に答え、フェレイラには信仰に立ち返るよう話しました。フェレイラは心の痛みに耐え切れなくなり、その場から逃げるように立ち去りました。結局フェレイラは棄教を取り消すことなく、ルビノ神父らは拷問にかけられることとなりました。
水責めが7ヶ月間もの間、一日おきに行われるなど、前代未聞の責苦を受けましたが、キリストの教えを拒むことがなかったため、ついには穴吊りにかけられました。4人が穴吊りで死に、丸9日も穴の中で生きていた3人は、「キリスト教を宣べ伝えたかど」で斬首されました。実際は誰にも宣べ伝える機会を与えられず、ただ苦しみの中にいただけでしたが。彼らの遺体はやはり切り刻まれ、灰にされ、そして海に撒かれました。
ルビノ神父らの来日からおよそ1年後の1643年6月にも、ペドロ・マルケスを長とする第二次フェレイラ救援隊10名が筑前の梶目大島に上陸しました。一行の目的も、フェレイラに立ち返りを勧めること、自分たちの血で彼の罪を償うことにありました。日本人に変装していましたが、すぐに発見され逮捕されました。しかし長崎に送られるかと思いきや、奉行が幕府に伺いを立てたところ、江戸に送れという命令が下りました。そこで、長崎奉行は、通訳の日本人2人とキリシタン目明しフェレイラをつけて、彼らを江戸に護送しました。
江戸では宗門改役の井上政重が待ち構えていて、巧みに彼らの心の隙に入り込み、信仰を揺り動かしました。そして神父4人を含む10人全員が転んでしまったのです。彼らは切支丹屋敷に幽閉され、日本人妻を娶り、ある者は15年、ある者は43年も、中で暮して亡くなりました。フェレイラ救援の結果は無残なものでした。第一次救出隊は「未曾有の」全員殉教で、第二次救出隊は「未曾有の」全員棄教とは。こんな結末を誰が予見したでしょうか。フェレイラは立ち返らず、ローマ教皇は日本に行くことをカトリック教会全体に禁止しました。
シドッティの日本潜入
屋久杉で有名な屋久島に、黒船騒動が起こったのは1707年10月のことでした。沖合に見慣れぬ黒っぽい外国船が現れたと、島中が厳戒態勢になりましたが、夜になり見えなくなり、明るくなった時にはいなくなっていたので、「ああ何でもなかったんだ」と島民はほっとしましたが、そうではありませんでした。明くる朝、藤兵衛という炭焼きを生業とする者が山に行くと、奇妙な風体をした男に出会いました。 藤兵衛は前日の黒船騒動を思い出しました。男の名前はジョアン・バプチスタ・シドッティ。イタリアのシチリア島生まれの神父でした。シドッティは、ローマの神学校で学んでいるときに、日本に関する多くの資料を目にし、日本に行きたいという願いを持つようになりました。そして、日本が禁教令を布いているのは、キリスト教を誤解しているからだと考えたシドッティは、自分が日本に行き、その誤解を解いて、再び布教できるようにしようと思ったのです。 マニラで日本語を習得したシドッティは、貿易船を屋久島の沖合で下りて、小舟で単身、日本に乗り込みました。日本人と知り合いになり、外国からの使節として将軍に謁見を申し込むつもりでしたが、藤兵衛が村長に連絡し、関わり合いを恐れた村長が藩に通報したので、すぐに藩の役人に捕まってしまいました。屋久島は薩摩の島津氏の管轄だったので、鹿児島に送られ、南蛮人だからということで長崎に送られ、牢に入れられました
江戸切支丹屋敷へ
長崎で処刑されてもおかしくない状況でしたが、シドッティにとっては一つの僥倖が起こりました。江戸へと行けることになったのです。それは奇跡的なことでした。なぜなら将軍綱吉の時代であれば、報告が入れば即効殺されていたでしょうが、シドッティが長崎の牢にいるときに綱吉が崩御。第六代将軍に徳川家宣が就任し、家宣の侍講だった新井白石が政治の表舞台に立つようになりました。そしてこの思慮深い知識人、新井白石が、シドッティを取り調べのために江戸に送るよう言ったのです。 江戸に着き、切支丹屋敷に入れられると、そこへ新井白石がやって来て、取り調べが始まりました。後年、この出会いのことを、新井白石は知人への手紙の中で、「一生の奇会だった」(奇妙な出会い、稀なる出会い)と言っています。計4回にわたる取り調べで、新井白石はシドッティの知識の深さと慎み深い様子に感嘆したようです。たとえばこんなことがありました。 「初見の日(第一回取り調べの時)、長く時間が経って既に日が傾いたので、奉行の人に向かって『何時(なんどき)になっておりますか』と聞いたところ、『この辺りには時を打つ鐘もないのでわかりません』とのことだった。シドッティは(奉行に断って庭に下りると)、頭(こうべ)をめぐらして、太陽のあるところを見て、地上にある自分の影を見る。そして指を屈して数えながら『我が国の暦法(暦)に従えば、何年何月何日の何時であります』と言った」 (新井白石著「西洋紀聞」より) 新井白石はシドッティのことを、博覧強記で諸学に習熟した人で、天文・地理の分野では私は到底及びもつかないと述べています。
三つの策
シドッティへの取り調べの後、わずか5日で新井白石は「羅馬人(ローマ人)処置献議」を書いて、将軍家宣に上呈しました。そこでシドッティの処遇について三つの案を挙げています。それを現代語にするとこうなります。 「異人(シドッティ)を裁き判決いたしますには、上中下の三策がありましょう。 第一、 彼を本国に帰すことが上策であります。これは難しそうに見えて、易しいと思われます。 第二、彼を囚人として助けおくことが中策であります。これは易しそうで、実は最も難しい。 第三、彼を誅する(死罪とする)ことは下策であります。これは易しそうで、易しい」 白石はこのように献議して、家宣に裁決を任せました。当時、キリシタンは磔獄門、宣教師は最も悲惨に処刑されるというのが通例だったのに、殺すのは下策と、実質的に退けているのですから、白石が冷静かつ寛容で、できればシドッティを助けようとしている姿勢がうかがえます。 そして結局、中策が採られました。家宣がそう裁決したからです。それでシドッティは死ぬまで切支丹屋敷に幽閉されることとなりました。
切支丹屋敷の長助とはる
初代宗門改め役、井上政重によって、1641年に設置されるようになった切支丹屋敷ですが、禁教令が出されて、日本にやって来る宣教師はいなくなり、信徒は摘発されては投獄され、棄教しなければ殺されて、数十年も経つと摘発されるキリシタンもいなくなりました。
そこで1701年、幕府は切支丹屋敷を約半分にし、残る敷地も随時縮小していくようにしました。そんな折に来たのがシドッティでした。天草・島原の乱からは半世紀以上も経ち、国内でキリシタンを見ることはついぞありません。切支丹屋敷もそろそろ手仕舞おうとしていたところに、降ってわいたような事件でした。
幽閉されることとなったシドッティには、中間(ちゅうげん)として、長助とはるという夫婦が付くようになりました。ところがこの夫婦が、1712年、「私たちもキリシタンになりました」と、役人に申し出ました。シドッティの日常生活の見事さ、信仰の深さ、強さに感銘を受け、唯一なる神がいること、確かに天国があることを信じるようになって、入信したというのです。
役人は驚愕しました。ご禁制のキリスト教を信じて、それを隠すのでもなく申し出るとは、狂気の沙汰だ、死にたいのかと。二人を入信させた廉で、シドッティは切支丹屋敷内の劣悪な獄に入れられることになりました。
このことは新井白石にも報告がいったはずですが、何のアクションもしていません。自殺行為にも思える、シドッティや中間夫婦の行動を理解できなかったことでしょう。またこの頃白石は多忙でした。家宣が薨去し、家継が将軍になったのですが、まだ幼児の家継を推し立てて、文治平和を構築するために日夜明け暮れていたのです。その上大奥を揺るがす、絵島生島事件が起こり、下手すると白石まで類が及びそうでした。なので他のことに手を出す余裕もなかったのです。
1714年、長助とはるは切支丹屋敷内で毒殺され、同じ年にシドッティは狭く冷たい半地下の牢、体が入る大きさしかなかったので、「詰め牢」と呼ばれていましたが、「詰め牢」で凍死しました。47歳でした。役人が書いた「契利斯督記」には、食を絶って自殺したと書かれていますが、キリスト教で禁じられた自殺を、信仰を守るがために牢に入れられた宣教師がするはずありません。彼らの遺体は切支丹屋敷内に埋められました。
切支丹屋敷の終焉
シドッティが亡くなって約十年後の1725年、切支丹屋敷は火災で全焼し、詰め牢もろとも焼失しました。そして再び建てられることはありませんでした。蔵だけが残り、そこにキリシタンから押収した品が多数保管されていたのですが、1792年、老中は切支丹屋敷を廃止することとし、蔵の中の物は神田見附竹橋御門内の不浄倉に移しました。
こうして約250年間、キリシタンを閉じ込め、死ぬまで出さなかった切支丹屋敷は、キリシタンが摘発されなくなることによって、必要性がなくなり、幕を閉じるようになりました。
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