失われた息子 The Parable of the Lost Son
水曜日祈祷会での聖書の学びは、『ルカの福音書』15章より「失われた息子のたとえ話/The Parable of the Lost Sun」でした。
まだ求道者だった昨年の夏に読んだ時の衝撃と感動が蘇り、と、同時に、昨年の自分では読み切れなかった深い真実がまざまざと迫りに迫り、何とも言えない深い感動が心の中を埋め尽くしました。
父の生前に財産の分け前を要求し、窮屈な実家から逃げ出し、やりたい放題の豪遊生活をした放蕩息子の話ですが、まずここで、これが罪人の姿なのだと気が付かされました。
どう考えても父とは父なる神様のことですので、父に反抗、すなわち神様に反抗して離れ、自ら遠いところへ行ってしまったのだと。
そこから考えると、その遠いところとは、異教の地ではなかったのではとも思えます。
切ないですね。あまりにも切ないです。
そして何もかも使い果たしたあとで、
その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
After he had spent everything, there was a severe famine in that whole country, and he began to be in need. So he went and hired himself out to a citizen of that country, who sent him to his fields to feed pigs. He longed to fill his stomach with the pods that the pigs were eating, but no one gave him anything.
— ルカ/Luke 15:14
落ちるところまで落ちました。
イスラエルでは律法により、豚は汚れた動物として、飼育することも食することもできませんでしたし、その豚のエサである極貧の食料さえ食べさせてもらえなかったのですから、ドン底まで落ちたという感じですね。
これが罪の結末かと思うと、心が凍り付きます。
しかし、我に返った彼は、こう言った。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」
When he came to his senses, he said, 'How many of my father's hired servants have food to spare, and here I am starving to death! I will set out and go back to my father and say to him: Father, I have sinned against heaven and against you. I am no longer worthy to be called your son; make me like one of your hired servants.'
— ルカ/Luke 15:17-19
「しかし」から彼は、自分がみじめであり、貧しく哀れであると、自分の姿に気付き、悔い改めを始めました。
父(父なる神)の豊かさを思い起こし、それに照らし合わせて自分の姿を比較し、父の祝福を受けるに値しない人間だということを認めたのです。
自分は地獄へ行っても当然な存在であるとも言い換えられるでしょう。
この節に来るといつも、私の心もうめきます。
こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家まで遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
So he got up and went to his father. But while he was still a long way off, his father saw him and was filled with compassion for him; he ran to his son, threw his arms around him and kissed him.
— ルカ/Luke 15:20
これが神様の姿なのか!と、心が震える箇所です。
息子がいた遠い国へ行けなかった父親が、息子を見るや走り寄って行った...。
罪が入ると、人間は神様から引き離されてしまいます。
悪魔にそそのかされたアダムとエバもそうでした。
神の人間への無条件の愛に嫉妬している悪魔は、何とかその間を引き離そうと、あの手この手で人間をそそのかします。
でも悔い改めれば、神様は受け入れてくださいます。
「早く私のもとへ帰っておいで!」
と、両手を広げて全ての人間を待っておられます。
今日こそは帰って来るのではないかと...この父親のように...。
そして、息子は父の前で罪の告白をしました。
ところが父親は、しもべたちに言った。「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。」
But the father said to his servants, 'Quick! Bring the best robe and put it on him. Put a ring on his finger and celebrate.'
— ルカ/Luke 15:22
息子は赦されました。使用人ではなく、息子の地位にまで戻されました。
みすぼらしい息子を見て、そら見たことか!と卑下せず、咎を責めず、ただただ大らかな愛で包んだ父親。
可愛くて仕方がないんですね。
父なる神様も同じです。
どれだけ反抗し、罪を犯し、その結果、霊的に死んでしまった人間でも、悔い改め、罪の告白をすれば、汚れてしまって悲惨な人間でも、そのありのままの姿を受け入れてくださいます。
そればかりか、神の子どもという特権まで与えてくださいます。
何という恵みでしょうか!愛が深すぎます。
「そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」
そして彼らは祝宴を始めた。
'For this son of mine was dead and is alive again; he was lost and is found.' So they began to celebrate.
罪から来る報酬は死です。
そう、息子は霊的に死んでいました。
現代の多くの日本人も同じです。
が、息子は神様のいのちを受けて、生き返りました。
永遠のいのちを持ったのです。
失われた人間が見つかっただけでここまで喜んでくださる...
それが神様の本質です。
ところが私たち人間はどうでしょうか。
自分に背いた人間を赦せるでしょうか。
何らかの仕打ちをされたら仕返さないでしょうか。
落ちぶれた人間をあざ笑わないでしょうか。
他人のスキャンダルを喜ばないでしょうか。
神の御前では野獣のような人間。
もしかしたら悪魔よりタチの悪い獣かもしれません。
だからこそ、神の愛を知っていただきたいです。
放蕩息子は、イエス・キリストを知る前の私でした。
受けるに値しない私に、恵みと祝福を注ぎ続けてくださる神様...
初めて愛を知りました。
七子 Nanako
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